丸森の本山修験宗寺院を訪ねて(宗吽神院・愛敬院)

2021年3月12日

本記事のタイトルにある「本山修験宗」とは、京都聖護院門跡を総本山とし、天台宗の流れをくむ修験道の一派です。

宮城県伊具郡丸森町には、奈良時代に聖武天皇の勅願所だった寺院及び慈覚大師円仁により平安時代に創建された寺院という、本山修験宗の古刹が2か所あります。

今回は、宮城県内でも屈指の古刹、宗吽神院(そううんしんいん)愛敬院(あいきょういん)を巡ります。

  • 修験道…山岳信仰と仏教の密教的信仰とがあわされた宗教で、山岳に登り修行をつみ、その呪力により加持祈祷を行う。
  • 勅願所…天皇の祈願を受ける寺社。
  • 慈覚大師円仁…平安前期の天台宗の僧で、山門派の祖。最澄に師事し、斉衡元(854)年に3世天台座主となり、天台宗の密教化に貢献した。

霊威山宗吽神院

歴史

以下は宗吽神院にある案内板に記載された寺伝をまとめたものです。

伊具郡には伊具臣家が祭祀を司る伊具宮があり、宗吽神院は、行基が聖武天皇の勅願により天平9(737)年に紀州熊野大神の分霊を伊具宮の傍らに勧請したことにはじまるそうです。

その後、聖武天皇が勅願所と定め、「清覚寺」と名を賜わり、山号を「国見山」と称し、伊具宮の神宮寺となります。

清覚寺には、大伴家持も度々訪れたといい、家持は清覚寺で没したとも伝わります。

清覚寺は大同3(808)年ごろから無住となり、延喜3(903)年に大江朝臣良言律師が宗吽院第一世になります。この時、菅原道真の娘みよこ姫が輿入れしているようです。
さらに、勅許により伊具臣家と大江家は統合され、以来、大江家として今日まで続いています(すごい)。

天喜5(1057)年には、源頼義が自らの守尊であった阿弥陀如来像を祀り、山号を「霊威山」と改め、宗吽神院と称しました。

寛治4(1090)年、園城寺の増誉が白河上皇の熊野詣先達の際、9世良融が増誉に供奉し、それ以降、本山派修験宗に属します。

以来、歴代の領主の崇敬を集め、江戸時代には伊達家の祈願所でしたが、明治の神仏分離令により庇護者を失い衰退してしまい、現在に至ります。

  • 大伴家持…奈良時代の公卿・万葉歌人。大伴氏の首長として種々の困難に遭遇、政治的には不遇に終わった。『万葉集』の編纂に重要な役割を果たす。
  • 増誉…天台宗の僧。寛治4(1090)年に白河上皇の熊野詣先達の功により熊野三山検校に任じられ、聖護院(本山派修験総本山)を建立した。
  • 熊野詣…和歌山県にある熊野三山に参詣すること。平安時代に上皇や法皇、貴族の間で流行し、鎌倉時代以降は庶民の間でも大流行した。
  • 神仏分離…従来の神仏習合を分断して寺院の支配下にあった神社を独立させた。神官や国学者らによる廃仏運動も起こり、仏教や修験道は大打撃を受けた。

境内散策

駐車場に車を停めます。結構広い駐車場がありますが、宗吽神院までの道路は少々狭いため、運転にはお気を付けください。

入口にある鳥居には菊紋と「霊威山」と山号が記されています。

宗吽神院は寺院ですが、鳥居があります。

これは、端的に言うと、修験道自体が神仏習合の宗派だからです。明治維新時に、神仏分離令により現在のようにお寺と神社が明確に区別されますが、江戸時代までは神仏習合が一般的でした。

今も地方のお寺に行くと鳥居があったり、神社のすぐそばにお寺があったりしますが、それは神仏習合時代の名残だったりします。

閑話休題、鳥居の先にある案内板には、往時の宗吽神院の境内図や歴史が書かれています。

案内板に描かれた境内図を見ると、現在残っているのは本当にごく一部のようです。

歴史については先述したとおりですが、正直、この規模の寺院が丸森町にあったと思わず、驚きました。

案内板を通り過ぎ、山門に向かいます。

山門には大きな天狗の面とともに「霊威山」と書かれた扁額が掲げられています。

山門をくぐってまず目に飛び込んでくるのは、大量の観音様です。これらは全て個人(あるいは企業)が願掛けで奉納したもので、宗吽神院の崇敬のほどがうかがい知れます。

宮城県外からの寄進者もちらほら

観音様の脇を過ぎ、不動堂へ向かいます。

お堂には「身代わり不動尊」が祀られていました。

天皇の勅願所だったため、狛犬に菊の紋が施されています。

不動堂の周囲には、石碑や観音様がありました。

石碑
穴の空いた石碑は大黒天を表すようです
ぼけ封じ観音

宗吽神院の境内はこれで終わりです。本堂もあるようですが、留守のようだったので参拝することはできませんでした。再度参拝しようと思います。

不動堂に続く参道横には、宝蔵があります。

御朱印はあるのかもしれませんが、私が参拝した際には寺務所が留守だったためわかりません。

寺務所は山門をくぐってすぐ横にあります。

宗吽神院は、現在は小規模なお寺で、案内板に描かれた境内図や周囲にある地名から往時の繁栄を偲ぶのみとなっています。

しかし、境内の建物などに施された菊の紋など、所々に聖武天皇勅願所としての威厳を見出すことができます。

〇宗吽神院

所在地:宮城県伊具郡丸森町舘矢間木沼宮後180

駐車場:あり

御朱印:不明

駒場瀧不動尊愛敬院

歴史

山号は「駒場山」。東北三十六不動尊霊場三十番札所です。

嘉祥3(850)年に天台座主慈覚大師円仁が、霊山寺を創建し、世の平安と人々の幸福を祈り駒場ヶ滝において自ら不動明王像を刻み、岩窟の中に祀ったことが始まりと伝わります。

以来、駒場瀧不動尊は山伏の修行の道場として栄えます。現在でも峰入り修行を行っています。

境内散策

愛敬院は不動尊公園と隣接しており、駐車場も不動尊公園駐車場を利用します。

「駒場瀧不動尊入口」と書かれた標柱の奥に駐車場があるので、標柱につられて参道に入らないようご注意ください。

右手の道路が愛敬院に続く。標柱奥に見える建物の前が駐車場になっている。

自然豊かな場所の為か、駐車場に車を停めるとすぐに、アブが群がってきました。

5匹ほどのアブに群がられ、車に体当たりされながらも、グーグル先生に解決策を教えてもらいなんとか外に出ます。

※アブは車の排気ガスに含まれる二酸化炭素に寄って来る(車を吸血対象と勘違いする)ようで、エンジンを切ってしばらく待つといなくなります。

「駒場瀧不動尊愛敬 入口」と書かれた標柱に従って参道を降りていきます。

駐車場から数分ほど進むと鳥居と山門が現れます。

こちらにも宗吽神院と同様鳥居があります。

この山門は文化文政の頃に義民菊地太兵衛により建てられたものだそうです。

江戸時代末期の文化文政の頃、相次ぐ冷害・飢饉にあえぐ農民たちへの郡役人の暴政に対して、農民は一揆をおこそうとしました。このとき、菊地太兵衛は人々の安楽と社会の平和を祈って私財を投じ、13年間不動尊に籠り、山門の造営をしている最中でした。太兵衛は、悩んだ末に農民を救うことこそが神仏の意にかなうことだと決意し、造営を中断して請願を行いますが、結局最後は単身仙台藩主のもとへ直訴し、捕らえられ獄死します。しかし、このことで藩では藩政を正し、悪役人を追放し、善政が施されたといいます。

愛敬院パンフレットより一部抜粋し要約

その後、山門は未完成のままとなっていましたが、昭和56年に完成工事が施されました。

山門には仁王様がいます。どちらも鮮やかな色合いで、表情やしぐさが絶妙です。

阿形
吽形

山門をくぐると、境内には本堂、地蔵堂、大黒堂、大日堂があります。

左が本堂、真ん中が地蔵堂、右が大黒堂

仁王門の前から、右手に不動尊公園に続く道があります。参拝を終え、不動尊公園の方に行ってみました。

山門前を右に曲がると不動尊公園。赤い橋を渡る。

不動尊公園に入ります。手前に「義民太兵衛辞世の碑」、奥に「子安観音堂」があります。

義民太兵衛辞世の碑

石碑には、

清かりし 駒場が滝を 死出の旅 みちびきたまえ 法の月影

という太兵衛の辞世の句と、太兵衛の親友であった小野権左衛門が太兵衛の山門建立を助けるために金五十五両の寄進をしたことの記念が刻まれています。

子安観音堂

太兵衛辞世の碑から奥に行くと、子安観音堂がありました。

子安観音堂付近からの景色

不動尊公園からは滝が見えます。釣り人の姿もあり、町民の憩いの場であるようです。

最後に、寺務所で御朱印をいただきました。

寺務所へは、参道にある鳥居まで戻り、その先に寺務所へ続く石段があります。

宗吽神院の住職さんは大江氏とのことですが、こちらの住職さんも大江さんでした。本山派修験宗同士、血縁関係があるのでしょうか(ありそうな気がする)。

〇駒場瀧不動尊愛敬院

所在地:宮城県伊具郡丸森町字不動59

駐車場:あり

御朱印:あり(300円)

寺院

Posted by きだ