坂上高道の墓

宮城県石巻市に坂上高道の墓と伝わる石碑があります。

坂上高道は坂上田村麻呂の11男で、従五位下陸奥介、子には出羽守坂上茂樹がいます。

高道の墓碑は、国道45号線沿いにある石巻市桃生町樫崎山田という集落の南側に長く伸びた山の先、「石文崎(いしぶみがさき)」と称される場所にあります。

石文崎へは車で行くことはできないので、石文崎付近に車を停めて徒歩で向かいます。

石文崎への入口

石碑は、かつての街道沿い、現在の国道45号線よりも北上川寄りに位置し、湯殿山碑とともに斜面上にあり、周囲は藪が生い茂り近づきにくくなっています。戦前に編纂された『桃生郡誌』には、覆い屋根がかけられた写真が載っており、現状とのギャップに驚かされます。

向かって右側が湯殿山碑、左側が高道の墓

高道の墓碑は貞観石とも呼ばれ、碑面には「高道 墓 貞観五年五月」と銘があり、仙台領三古碑の一つに数えられています。

貞享3(1686)年に遊佐木斎が初めてこれを記し、享保4(1719)年に佐久間洞巌が『奥羽観跡聞老誌』で発表して以来有名になったようで、仙台藩の命により編纂された『封内風土記』によると、貞観5(863)年に蝦夷征伐のために赴いた坂上高道が山田の地で戦死し、墓が建てられたとあります。

また、文政11(1828)年に編纂された『桃生南北本吉南方風土記』には、墓碑がある樫崎という地は、源義家と安倍貞任が合戦をした地で、「合戦崎」が「樫崎」となったが、実はこれは高道が戦死したことを指すのだと記されています。

これに関連して、以下の伝承が伝わっています。

寺崎部落附近に坂上大宿禰高道の墳がある。高道は陸奥守として下ってきて天安2(858)年正月に戦死した人物。村人は「山田の碑」「貞観石」と呼んでおり、この塚を涜すと禍を受けると言い伝えられてきた。寛政2(1790)年4月、庄兵衛という農夫が鋤で塚の上の土を掘ったところ、帰宅後に発熱悪寒をおぼえて人事不省におちいり、「汝百姓の身を以って蓑笠を着け土足のまま我が塚の上を削る。非礼も甚だしい」とうわ言を言うようになった。家族が驚いて墓に行き、香華を供えてその罪を詫びると主人の病は忽ち癒えたという。土地の人々が碑を荒廃に任せていたので祟りを受けたのだろうということである。寺崎部落の高橋屋六蔵の談話。

「怪異・妖怪伝承データベース」より

高道は遠山(現在の登米市登米(とよま)町)の寺池城に依った蝦夷の法量の討伐に失敗し自害したと伝わりますが、高道がこの地で戦死したという記録はなく、また、戦があったという記録も史書からは見出せません。『封内風土記』でもこのことに触れており、口伝伝承を受け継いだある時代の人々が、遺徳を偲び、史実に照らすすべなくして伝えられるままを石に刻んで語り草の証としたのではないかとされています。

高道の墓については、坂上当道と高道混同説・偽作説など諸説ありますが、石碑に刻まれた文言の不自然さ、史書の記述の不整合などから、後世の創作だとするのが通説です。実際、史書には高道がこの地に下向したという記述は見つけられません。

しかし、墓がある樫崎地区周辺には高道が創建したと伝わる神社や高道が祭神として祀られている神社があるなど、なぜ東北各地に伝説の残る坂上田村麻呂でなく、高道が伝説として残っているのか興味をそそられます。