疱瘡神について~感染の歴史と信仰~

2020年10月10日

昨年訪れた神社に、「疱瘡神」(ほうそうしん)と彫られた石碑がありました。

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宮城県仙台市にある諏訪神社境内で撮影

この石碑がいつごろつくられたのかは年号がわからず不明ですが、おそらくは江戸時代のものと思われます。

「疱瘡」って天然痘のことだよな~と思いつつ、どうして病気を祀っているのか気になり、調べてみました。

今回は、「なぜ病気である疱瘡(天然痘)が「疱瘡神」として祀られたのか」について、天然痘の歴史を振り返りながら考えてみます。

疱瘡神とは

疱瘡神(ほうそうしん)とは、疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神のことで、疫病神の一種です。

ここで、天然痘の概要について、確認しておきましょう。

天然痘は紀元前より、伝染力が非常に強く死に至る疫病 として人々から恐れられていた。また、治癒した場合でも顔面に醜い瘢痕が残るため、江戸時代には「美目定めの病」と言われ、忌み嫌われていたとの記録がある。

天然痘ワクチンの接種、すなわち種痘の普及によりその発生数は減少し、WHO は1980年5月天然痘の世界根絶宣言を行った。以降これまでに世界中で天然痘患者の発生はない。

国立感染症研究所ホームページより

天然痘は現在は根絶されていますが、江戸時代には「美目定めの病」と言われ、忌み嫌われていたそうです。

独眼竜の異名を持つ、仙台藩祖伊達政宗公も、幼少の頃に天然痘にり患しています。このときの天然痘の瘢痕により、母である義姫(保春院)から疎まれたと言います。

さて、紀元前から人々に恐れられていたという天然痘ですが、いつ頃日本に上陸したのでしょうか。

ちなみに、天然痘は平安時代にはすでに流行り病の代表的な存在になっています。

実は、『続日本紀』(しょくにほんぎ)という古代日本でつくられた歴史書に最初の大流行の記録が残されています。

注)続日本紀…古代日本国家が編纂した歴史書である六国史(りっこくし)の一つ。文武元(697)年から延暦10(791)年までを編年体で記述している。奈良時代を研究する上での基本史料でもある。

古代日本における大流行

『続日本紀』には、天平年間に天然痘が大流行したことが記されています。

この天平年間の大流行は、天平7(735)年から同9(737)年にかけて発生し、日本史研究者ウィリアム・ウェイン・ファリス氏が、『正倉院文書』に残されている当時の正税帳(しょうぜいちょう 税金の収支決算報告書)を利用して算出した推計では、当時の日本の総人口の25~35パーセントにあたる、100~150万人が感染により死亡したとされています。

『続日本紀』によると、天平7年8月には、大宰府管内である西海道諸国(現在の九州地方)で疫病(天然痘)が大流行していたようで、政府は、天然痘の流行をとめるべく、長門国(現在の山口県)以東の諸国に、疫神が侵入するのを防ぐために、道饗祭(みちあえのまつり)をするよう指示を出しています。

こうした早めの対応が功を奏してか、流行は年末までには小康状態になったようです。

このときの感染源としては、遣新羅使(新羅は朝鮮半島南部にあった国)もしくは遣唐使(唐は中国にあった国)が感染源である可能性が高いと考えられています。

しかし、結局九州で発生した天然痘は、全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出します天平9(737)年6月には官吏の間で疫病が蔓延し、朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)も全員が天然痘によって病死してしまいます(現代で例えると、首相をはじめとする政府の主要人物が全員いなくなる状況です)。

この時、流行を受けて税免除の措置がとられますが、現代のような医療設備など無い時代、農民の多くが天然痘により死亡、もしくは農地の放棄に追いやられ、収穫量が激減したことで飢饉が引き起こされました。

もちろん、農民階級以外の人々も、貴賤の区別なく大勢亡くなっています

以上のように、全国で猛威を振るった天然痘ですが、流行は天平10(738)年1月までにほぼ終息します。

ちなみに、東大寺にある奈良の大仏(盧舎那仏像)は、天平の大流行の後、国家に降りかかる災いを仏教の力で守ろうと考えた聖武天皇の命によって造立されました。
また、天然痘の終息から数年後には、農業生産性を高めるために農民に土地の私有を認める「墾田永年私財法」が施行されますが、これは疫病によるダメージからの回復を目指す社会復興策としての一面が強かったようです。

奈良県の東大寺大仏殿にある廬舎那仏(奈良の大仏)

『続日本紀』をはじめ、古代の歴史書は漢文で書かれており、一見無味乾燥に思えます。

しかし、読み解いていくと、税の免除や病人の救済策を講じ、神社や寺院で大規模な病気平癒の祈祷を行うなど、当時の人々がなんとかして天然痘の流行を食い止めようと奮闘する様子がまざまざと浮かんできました。

今に伝わる疱瘡神の習俗・伝承~なぜ病を祀ったか~

さて、次に疱瘡神関わる習俗や伝承を2つご紹介し、「なぜ病を神様として祀ったのか」を考えてみます。

①兵庫県淡路島

兵庫県の淡路島では、疫病神を人形に見立て、それを小さな木舟に乗せて海に流す習俗があったそうです。

これは、当時の人々が天然痘のような疫病は海の彼方にある常世の国(ニライカナイともいう)からくると信じていたことを示すと考えられます。つまり、疱瘡神=マレビト(来訪神)という捉え方です。

マレビトとは、時を定めて他界(疱瘡神の場合は常世の国)から来訪する神のことで、折口信夫が提唱した概念です。

著名なマレビトとして、ユネスコに登録された、秋田のナマハゲなどが挙げられます。

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秋田県男鹿市にある「なまはげ館」

②福井県小浜市

福井県小浜市には、次のような話が伝わっています。

永禄の頃、小浜のある船主の家に見知らぬ老人がやってきて、しばらく宿泊していた。帰り際に、自分は疱瘡神であると身分を明かし、お世話になったお礼に、お前の一家の疱瘡が軽く済むように取り計らってやると言った。そこで、そのときの疱瘡神の姿模様を描いて画像として祀り、福の神として拝んだ。

谷川健一『日本の神々』より

この話からは、当時は天然痘にかかる可能性が極めて高く、どうせかかるのなら少しでも軽く済ませたいという思いがあったことが伺えます。この話の時代は永禄(1558-1570)年間のものと伝わります。

江戸時代は「美目定めの病」として忌み嫌われていた疱瘡も、戦国時代ではまだどうせかかるなら軽く済みたいなあという感じだったのでしょうか。

さて、若狭小浜に伝わる話と類似するものとして、「蘇民将来」が思いつきます。

「蘇民将来」の話は、「備後国風土記」逸文をはじめ、全国各地でみられます。

ざっくり紹介すると、宿を求めた武塔神(スサノオ)を粗末ながらも丁寧にもてなした蘇民将来の一族が疫病を避けることができたという話です。

両者の共通点として、「病を避ける」という福を授けたマレビト的な性格をもった疱瘡神が登場するというのが挙げられます。

ちなみに、私の家の玄関には「蘇民将来之子孫也」というお札が貼ってあります。疱瘡神の姿を描いて画像として祀ったという若狭小浜の伝承との共通点がここでも見出せます。

さて、以上2つの話からは、病と戦う・退治するのではなく、人間の手に負えない存在(神)をマレビト(来訪神)として丁重に祀り、災いを退け福を授かる。」という考え方(信仰)があったと考えられます。

人々の間にこうした考え方(信仰)が広まったことで、「疱瘡神」を石碑に彫り祀ることが行われたのではないでしょうか。

石碑観察のすゝめ

最後に、本題とはあまり関係ありませんが、「石碑観察のすゝめ」をさせていただきます。

今回ご紹介した石碑以外にも、神社やお寺あるいは道端はたくさんの石碑が残されています。

そのバリエーションは非常に豊富で、庚申塔や馬頭観音、出羽三山碑、飢餓供養塔など、挙げればきりがありません。

しかし、そうした石碑は今ではあまり顧みられることはありませんが、その石碑一つ一つが当時の人々の願いのかたちであり、先人たちの信仰の一端に触れることができる貴重なものです。

そうした石碑を見かけた際には、一度立ち止まって観察してみてはいかがでしょうか。

その石碑を建てた先人たちに思いを馳せてみたり、何が彫られているか調べてみたり、と楽しみ方はいろいろあります。

私自身、石碑にドはまりしてしまった人間ですが、石碑はかなり奥が深い世界です。

このあたりの石碑の楽しみ方や魅力については後々記事にしたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

参考文献

朝尾直弘ほか編『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版、2013)

谷川健一『日本の神々』(岩波書店、1999)

山中裕ほか編『平安時代の信仰と生活』(至文堂、1994)

吉川真司『天皇の歴史2 聖武天皇と仏都平城京』(講談社、2018)

渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』(講談社、2001)

歴史,民俗

Posted by きだ