「もうひとつの平泉」紫波町を歩く
紫波町について
岩手県紫波郡紫波町は、岩手県の真ん中に位置し(花巻市と矢巾町の間)しています。近年は公民連携による地域活性化計画「オガールプロジェクト」が全国から注目を集めています。
紫波中央駅前を再開発して建てられた「オガールプラザ」と「オガールベース」に行ってみましたが、販売店や飲食店(カフェもある)、クリニックに体育館、図書館といった文化施設、さらには公園、宿泊施設も備えているという素晴らしい複合施設でした。
そんな紫波町ですが、この地には、奥州藤原氏が平泉(岩手県平泉町)に君臨していた平安時代末期、奥州藤原氏の一族である比爪氏が本拠を置いていました。
- 比爪氏:奥州藤原氏初代清衡の四男清綱の長子俊衡が、現在の紫波町日詰に比爪館を建て、比爪氏を名乗った。
近年の発掘調査で、平泉にも匹敵する規模の遺構や遺物が発掘され、「もうひとつの平泉」というテーマで岩手県立博物館において特別展が開催されました。また、比爪氏研究の第一人者である羽柴直人氏による『もうひとつの平泉 奥州藤原氏第二の都市・比爪』が吉川弘文館の歴史文化ライブラリーから発売されています。
今回は、「もうひとつの平泉」紫波町の奥州藤原氏関連史跡と紫波町の神社をご紹介します。
紫波町を観光する際、駅前を散策するのであれば問題ありませんが、他の史跡などを巡るのであれば、駅から結構距離があるので、車もしくは自転車での移動をおすすめします。移動手段にはお気を付けください。
また、この記事で扱っている情報は、平成30年3月及び令和元年7月時点のもののため、現在のものとは異なる場合がありますのでご了承ください。
わかりやすいように写真には撮影年月日を記載しています。
奥州藤原氏関連史跡
蜂神社(陣ケ岡歴史公園)
まず最初のスポットは、蜂神社(陣ケ岡歴史公園)です。
ここは文治5(1189)年の奥州合戦で、源頼朝が本陣を敷き、藤原泰衡(奥州藤原氏最後の当主)の首を検断した場所で、『吾妻鏡』にも「陣岡」とその名が見えます。
今はひっそりとしていますが、大きな鳥居があり、境内は結構広かったです。駐車場は鳥居をくぐって奥に進むと広場にでるので、そこに停めます。
車を降りてすぐのところに、案内板がありました。
さっそく目を通してみると、2枚目の写真の看板にある「陣ケ岡史跡武将縁記」なる箇所に目が釘付けになりました。
そこには、日本武尊(やまとたけるのみこと)・安倍比羅夫(あべのひらふ)・道嶋宿禰(みちしまのすくね)・坂上田村麻呂・安倍頼時・源頼義・義家父子・藤原秀衡・源頼朝などなど東北の歴史を彩る大物たちの名前がこれでもかと並べられていました。
しばし悠久の歴史に思いを馳せます。
ちなみに、奥州合戦の際、陣ケ岡で泰衡の首が検断されましたが、陣ケ岡のすぐそばに泰衡の首を洗った井戸があります。
井戸といっても、囲いがあるわけでもなく、大きめの水たまりかなという印象を受けました。付近には案内板が設置されていましたが、結構わかりづらい場所でした。(写真撮ったはずなのに見つからないです。ごめんなさい。)
〇蜂神社(陣ケ岡歴史公園)
住所:紫波町宮手字陣ケ岡69
駐車場:あり 御朱印:不明
〇泰衡首洗いの井戸
所在地:紫波町陣ヶ丘平坊187
駐車場:すぐ側に車を停められる場所があります。
樋爪氏関連史跡(樋爪館・大荘厳寺跡)
陣ケ岡周辺史跡を後にして、車を10分ほど走らせ、比爪氏の本拠であった比爪館に向かいます。
文治5(1189)年9月4日、源頼朝が平泉を攻めて紫波の陣ヶ岡に布陣しました。この時、比爪氏は館に火を放ち北へ逃亡します。
頼朝の裁定で太郎俊衡(3代秀衡のいとこ)がただ一人この地に残り、その他の一族はすべて関東方面に流罪となりました。こうして、比爪氏は滅亡してしまいます。
現在、館のあった場所には赤石小学校が建てられており、当時の名残を残すのは、付近にある薬師神社や館の空間を想起させる周囲の地名くらいとなっています。
ちなみに薬師神社の宮司さんによると、現在も平泉の中尊寺からお坊さんを招き、祭祀を執り行っているとのことでした。
近年、発掘調査が進み、比爪の地は「もうひとつの平泉」と呼ばれるほど繁栄していたことが判明しています。
比爪氏は、比爪の地の産金等を支配したと考えられており、館は奥大道と北上川が南北に走る交通の要衝にあり軍事と物流の拠点でもありました。
また、館跡周辺に堀の跡や平泉と同時期の住居や井戸、倉庫などの跡が確認され、かわらけと呼ばれる素焼きの土器が大量に出土しています。
かわらけの器種は皿形から碗形をした直径13~16センチほどの大型のものと、小皿形の直径7~8センチ前後の小型のものがあり、平泉のものとは若干違う特徴がみられ、樋爪以北の地に分布がみられるそうで、比爪氏の勢力の大きさが伺い知れます。
復元絵図(上の写真)を見ると、比爪館は「政庁」「御所」「寺院」(大荘厳寺)を構成要素に持っていることがわかります。これは平泉と同様の構成になっています。
このうちの大荘厳寺は、奥州藤原氏の滅亡後も存続し、比爪俊衡が居住していたと伝わります。俊衡の死後も、この地に所在しましたが、近世初頭に盛岡城下建設に伴い、盛岡市加賀野に移転されます。そして、明治初頭の廃仏毀釈により廃寺となってしまい、現在は跡しか残っていません。
ちなみに、「大荘厳寺跡」を示す標柱の付近に、比爪氏滅亡後、鎌倉時代に大荘厳寺を中心としてこの地域に仏教が広がっていったことを示す「箱清水石卒塔婆群」というものがあります。
大荘厳寺周辺には、薬師神社から五郎沼にかけてこうした石の供養塔がおよそ10基あります。
その中には、不動明王像が線刻された絵像碑があり、元亨3(1323)年4月8日の銘文が彫られており、県内最古の絵像碑とされています。
〇樋爪館跡(薬師神社)
住所:紫波町南日詰字箱清水 赤石小学校周辺
〇大荘厳寺跡及び箱清水石卒塔婆群
住所:紫波町南日詰字箱清水
駐車場:五郎沼に駐車
紫波町の神社
ここからは、紫波町にある古社を3社ご紹介します。
志和古稲荷神社
まず1か所目は志和古稲荷神社です。
創建年代は不詳ですが、言い伝えによると、前九年合戦の際、陣ケ岡に布陣した源頼義・義家父子により勧請されたといいます。
祭神は「開運福徳の神」「産業の神」として尊崇されている「宇迦御魂命(うかのみたまのかみ)」で、あらゆる生業に幸福を与える神として広く崇敬されています。
この神社は、全国でも珍しい「白狐のミイラ」が祀られていることでも有名です。
昭和29(1954)年9月26日に台風15号により、社前の御神木である大杉が倒伏しました。その根元の空洞の土中から、白狐のミイラが発見され、御眷属(ごけんぞく)として御眷属社の中に安置されています。
境内は古稲荷というだけあり、なんとも厳かな雰囲気です。
神職さんが常駐しており、御朱印もいただけます。
〇志和古稲荷神社
住所:紫波町升沢字小森108
駐車場:あり
御朱印:あり(初穂料300円)
志和稲荷神社
2か所目は志和稲荷神社です。志和古稲荷神社から車で数分の距離です。歩いても行けます。
創建は天喜5(1057)年。鎮守府将軍源頼義(頼朝の先祖)が社殿を再興したのに初めとし、樋爪氏、斯波氏、南部氏と代々当地の有力者から保護されてきた神社です。御祭神は宇迦御魂大神・猿田彦大神・大宮能売大神です。
宇迦御魂大神は志和古稲荷の宇迦御魂命と同じ神様です。猿田彦大神は交通安全の神、大宮能売大神は技芸上達、福徳円満の神です。
境内は古木が生い茂り、お稲荷さんならではの朱色の鳥居が数多く建てられています。境内は広く、祠もたくさんあり、ゆっくり参拝ができました。
こちらでも御朱印がいただけます。
〇志和稲荷神社
住所:紫波町升沢前平17-1
駐車場:あり
御朱印:あり(初穂料300円)
志賀理和気神社
最後となる3か所目は、志賀理和気神社です。
この神社は、紫波町の中心部付近に鎮座しています。
志和稲荷神社から車を走らせること約20分。町の中心部に近い川沿いにあります。
車は社務所の前に停めました。
創建は、延暦23(804)年に坂上田村麻呂が、東北開拓の守護神として武甕槌神(鹿島神)・経津主神(香取神)を勧請したことに始まるといわれ、『延喜式』神名帳に記載された延喜式内社です。
奥羽の式内社では、地主神(その土地に祀られた地元の神)とともに中央神(天皇家にゆかりのある神)を勧請して創建される例が多いのですが、この神社がこのパターンに当てはまるかはわかっていません。また、神名である「志賀理和気」の由来も定かでないそうです。
私見になりますが、神名の「和気」、これが古代氏族の和気氏に関わりがあるのではないかと推測しています。神名に「和気」が入る式内社は陸奥国に多くみられるので、色々と調べてみようと思います。
話を戻します。境内には、紫波町の「紫波」の由来となった霊石「赤石」が祀られており、由来が書かれた案内板も設置されていました。
案内板によると、戦国時代に紫波周辺を治めていた斯波詮直が、北上川の川底にある赤石を見て詠んだ歌にちなむそうです。
ここでも御朱印をいただけます。
また、県外からの参拝客にはお守りを頒布しているとのことで、お手製のお守りをいただきました。宮司さんのお心遣いがとてもありがたく、気持ち良く参拝することができました。
〇志賀理和気神社
住所:紫波町桜町本町川原1
駐車場:あり
御朱印:あり(初穂料300円)
まだまだ行ってみたいところがあるので、また機会を見つけて散策してみたいと思います。