飯野山神社
今回は、『延喜式』神名帳に名が見える延喜式内社で桃生郡六座の一つ、宮城県石巻市にある飯野山神社です。
飯野山神社には論社(延喜式内社と伝えられる神社)が2社あり、どちらも参拝してきました。
飯野山神社(宮下)
飯野山神社(宮下)は、第12代・景行天皇の皇子である日本武尊が東征の際に創建した神社と伝わります。飯野山神社の社伝によると、日本武尊がこの地に本陣を敷いたが、兵粮が尽きて困り果てていた際に、老翁が忽然と現れて米を炊いて日本武尊に献上し、日本武尊が大いに喜び、祠を建てて祀ったことに始まるそうです。
このときの出来事により、炊飯の場所を「飯野」、米のとぎ汁が流れた先を「飯野川」という地名が生まれたと伝わります。ちなみに、飯野川は江戸時代に宿場町として栄え、戦国大名葛西氏の流れを汲む飯野川葛西氏が治めていた地です。
神社は、往古は飯野山山頂(現在の飯野山神社(吉野)の鎮座地)にありましたが、文化4(1807)年に領主の山崎源左衛門が、北辺警備の任を終えて帰郷した際に、社殿を現在地に遷座しました。
現在は主祭神として、稚産霊大神(若々しい命を司る神様)・大山津見大神(山を司る神様)・保食大神(万物生成化育の神様)を祀ります。
神橋を渡り、大鳥居をくぐります。参道脇には多数の石碑があります。
石碑と並んで「猫神社」なる祠があります。
参道はこんな感じです。杉の巨木が歴史を感じさせます。
飯野山神社には、「稚児やぶさめ」という神事があり、その際に使用される的場があります。
的場を過ぎ、先へ進むと、長床が見えてきます。長床を入ってすぐのところに、書置きの御朱印が置いてありました。
長床をくぐると、縦長の鞘堂が目を引きます。
こちらが飯野山神社拝殿と本殿です。菊の御紋が彫られています。
先ほどの鞘堂は、熊野神社のものでした。柏手を打つと柏手の音が鞘堂に反響して心地よかったです。
境内にあるお社には、ひとつひとつ御祭神と御神徳が記された説明板が設置されており、参拝を助けてくれます。
【所在地】宮城県石巻市飯野宮下北134
【御朱印】あり(初穂料300円)
【駐車場】あり
飯野山神社(吉野)
飯野山神社(宮下)から車で10分ほどのところに、飯野山神社(吉野)があります。
主祭神は大御食津姫神で、食物を司る神様です。
吉野の名のとおり、藩政時代には桜の名所として知られていたようです。神社は飯野山山頂にあり、式内社飯野山神社の旧社地に、天和年間(1681~1683)に里人が雷電社を建て、その雷電社が明治に飯野山神社と名を改めたそうです。
細い道を進んでいくと朱色の鳥居が見えてきます。扁額には「奥洲一百座延喜式内飯野山神社」と書かれています。神社は山頂にあるため、この鳥居付近に車を停めて山頂を目指します。
鳥居を過ぎて少しすると、舗装された道が途切れ、林道のような道になります。
苔むした馬頭観音碑がごろごろありました。明治期のものがほとんどでした。
馬頭観音碑からさらに進んでいくと、「延喜式内社飯野山神社(吉野)」という標柱と祠、石碑が現れます。
祠は山神様でした。しっかりお祀りされています。石碑は庚申塔がメインでしたが、気になる石碑がありました。
それがこちらの、赤い柵で囲われた石碑で、梵字の下には「嘉暦三年」の銘があります。嘉暦三年は西暦で1328年です。鎌倉時代末期にあたります。
「吉野」という地名とこの石碑から、南朝と関係があるのではと思い調べてみると、飯野山神社には邦良親王(後醍醐天皇の甥で皇太子になった人物)を祀る一皇子神社があり、現在は飯野山神社に合祀されているそうです。
なぜ邦良親王を祀る神社があったのかは不明ですが、南北朝時代に南朝方として活躍した葛西氏が石巻地域を治めていたことが関係していると思われます。
他にも石巻市湊には後醍醐天皇の皇子である護良親王の墓所とされる一皇子宮がある等、石巻エリアには南朝由来の史跡が多くあります。
話を戻します。石碑と祠がある場所から、雪が残るつづら折りの山道を登っていきます。
雪の上に残る獣の足跡を見ながら登ること約15分。鮮やかな朱色のお社が見えてきました。
山上の神社のため、きっと寂れているだろうと思っていましたが、社殿や境内社はいずれも真新しい注連縄が張られるなど、手入れが行き届いており、地元の方々の篤く信仰され、大切にされているのだろうと感じました。
【所在地】宮城県石巻市飯野外吉野127
【御朱印】なし
【駐車場】なし