長光院(最上三十三観音第12番札所)

最上三十三観音第12番札所である長谷山長光院(長谷堂観音)はせさんちょうこういんは、山形県山形市長谷堂にあり、最上三十三観音札所のなかでも難所とされています。

観音堂がある標高229m程度の小高い山には、戦国時代に長谷堂城という城がありました。

長谷堂城は、慶長5(1600)年に上杉景勝(西軍)と最上義光もがみよしあき・伊達政宗(東軍)が激突し「北の関ヶ原」とも呼ばれる慶長出羽合戦において、長谷堂城の戦いの舞台となった場所です。

合戦の経過等は長くなるので割愛しますが、直江兼続率いる上杉軍の大軍(約2万)と城を守る志村光安ら率いる最上軍(約1千)が激烈な攻防戦を繰り広げ、関ケ原の戦いで東軍が勝利するまで守り抜いた最上軍が勝利しました。

長谷堂城の戦いについては、松尾剛次けんじ山形大学名誉教授の『家康に天下を獲らせた男 最上義光』に詳しいです。

長谷堂城跡遠景

第11番札所の高松観音から、長谷堂トンネルを抜けると長谷堂城跡ある城山と長谷堂の集落が見えてきます。

長谷堂観音へは参道入口付近に3台程度停めることができる駐車場がありますが、付近は対向車とのすれ違いが難しいほど道幅が狭く、授与所まで距離もあるので、長光院(授与所)さんの前にある駐車場に停めて向かった方が良いです。

寺伝によると、前九年合戦で勝利した源頼義が、大和国(現在の奈良県)の長谷寺の観音像を守護仏として持参し、霊夢により都への帰途、この地へ堂宇を建立し、観音像を安置したことに始まるといいます。そのため、山号を長谷山、地名も長谷と呼ばれるようになったそうです。

現在、長谷堂城は城跡のみとなっています。観音堂への参道入口には杖も置いてあるので安心です。

参道入口

参道を進むとまもなく未舗装の道になり、「長谷山」の山号が書かれた扁額を掲げた鳥居が見えてきます。神仏習合の名残が見受けられます。

鳥居から10分程度石段を登っていくと、城跡へ続く道と観音堂へ続く道で二手に別れます。

観音堂へ向かうと、3基の石塔と2基の石仏が現れます。

観音堂の扉には納札でびっしりと覆われていました。本尊は行基が刻んだ一寸八分の十一面観音菩薩で、三尺ほどの木像の胎内に納められています。

観音堂

観音堂の近くには石塔や石仏がありました。真ん中の五輪塔はよくみると家紋のようなものが彫られており、長谷堂城の戦いの戦没者のために建立されたのではないかと想像が膨らみます。

かつて数多の戦死者を出す激しい戦いがあった長谷堂城も、今は城跡となり草が生い茂り、観音堂や供養塔などが残るのみ。松尾芭蕉が平泉高館で詠んだ「夏草や 兵どもが 夢の跡」という句を思い出しました。

下山後、長光院さんへ向かい御朱印をいただきました。

御朱印(左)とお姿(右)

他の最上三十三観音札所については、こちら

【所在地】山形県山形市長谷堂23-3

【御詠歌】いくたびも まいるこころは はせどうの やまもちかひも ふかくなりけり

【宗派】真言宗

【本尊】十一面観音菩薩

【駐車場】あり(参道入口または別当長光院前)