奥州三十三観音霊場札所巡り
観音霊場について
奥州三十三観音霊場は、北は岩手県二戸市、南は福島県福島市と、岩手・宮城・福島の3県に札所がまたがる観音霊場です。
観音信仰を一般の人々に広くひろめたのは聖徳太子で、多くの経典のなかから「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」を見出し、庶民を現世の苦悩から救う経典として法隆寺の夢殿に救世観音を祀り、人々にその教えを広めたとされています。
次いで天平13(741)年に聖武天皇の詔により諸国に国分寺・国分尼寺が建立され、さらに多くの人々の信仰を集めました。
奥州においては征夷大将軍坂上田村麻呂と慈覚大師円仁による布教の影響が大きく、奥州三十三観音霊場のほとんどの観音堂は両者の開創によるものといわれています。
観音霊場が三十三番あるのは、人生で遭遇する苦難、災難、悩みに対して、観世音菩薩が33通りの姿に姿に化身して救うという観世音菩薩三十三変化に由来するとされています。
なお、巡礼を始める際、奥州三十三観音霊場の納経帳を取り扱う事務局が第2番札所の秀麓齋さんにあるため、先に秀麓齋さんで納経帳を購入します。
名取老女旭による札所創設と江戸期の再興
奥州三十三観音霊場の創設は、詳細な資料が残っていないものの、現在の宮城県名取市にいた老女旭による創設という話が定説になっています。
鳥羽帝の頃(1107~1123年)、名取にいた旭という神子が、自らが篤く信仰する紀州熊野権現を分霊し、熊野三社権現を祀ります。
旭は毎日の参詣を欠かさず行っていたある日、熊野の神のお告げを受け、熊野三社権現を高舘山に遷座し、奥州の熊野を札はじめとして西国三十三観音霊場にならい三十三所の観音霊場を定めたと伝わります。
旭が創設した札所は、江戸時代には衰退してしまします。
現在の札所は、宝暦11(1761)年、気仙沼市にある第30番札所補陀寺の智膏和尚ら7人の僧たちによって定められたものです。その際の再興巡礼時に納められた納札が現在も各地の札所に残されています。
奥州三十三観音霊場札所一覧
クリックすると各札所ごとの記事に移ります(参拝した札所は随時更新します)。
第7番札所 富春山大仰寺(富山観音)…奥州三観音/奥州七観音
第8番札所 両峰山梅渓寺(牧山観音)…奥州三観音/奥州七観音
第9番札所 無夷山箟峯寺(箟岳観音)…奥州三観音/奥州七観音
第10番札所 大嶽山興福寺(大嶽観音)…奥州七観音
第15番札所 竹峯山華足寺(鱒渕観音)…奥州七観音
第22番札所 楽峯山勝大寺(小迫観音)…奥州七観音
第24番札所 遮那山長谷寺(長谷観音)…奥州七観音
特別霊場 関山中尊寺
特別霊場 医王山毛越寺
特別霊場 瑠璃光山医王寺
以上の札所のうち、奥州三観音は、坂上田村麻呂により創建された札所で、奥州三観音を三年続けて詣でると、必ず望みが叶えられるといわれています。また、奥州七観音は、坂上田村麻呂が蝦夷との戦いによる戦死者を葬った場所に建てられた札所で、いずれも風光明媚な場所にあります。
奥州三十三観音霊場を巡る際、巡礼ガイドブックがあると便利です。
札所によってはご本尊の写真が掲載されています。奥州三十三観音霊場では無住の札所が多く、なかなかご本尊を拝めない札所があるので重宝します。