桃生城跡~三十八年戦争始まりの地~

今回は、宮城県石巻市にある桃生ものう城跡です。

桃生城は、石巻市河北かほく町の中心部から、北上川を越えて西へ約4kmの場所にあります。現在は民家の畑や森林となっていますが、ここはかつて、朝廷と蝦夷えみしとの間で宝亀ほうき5(774)年から弘仁2(811)年までの38年間に渡る三十八年戦争の始まりとなった場所です。

桃生城と桃生城襲撃事件

桃生城は、8世紀半ばに陸奥按察使むつあぜち兼鎮守府将軍藤原朝狩あさかり(藤原仲麻呂(恵美押勝えみのおしかつ)の子)が、出羽国の雄勝おかち城とともに造営した城柵です。太平洋沿岸の海道蝦夷の前線拠点として造営され、軍事的機能と行政的機能を有していました

『続日本紀』天平宝字4(760)年正月四日条の記事によると、

「跨大河凌峻嶺。作桃生冊。奪賊肝膽。」(大河をまたぎ、峻嶺を凌ぎ、桃生柵をつくりて賊(蝦夷)の肝胆を奪う。)

と、桃生城の威容が記されています。

遺跡の範囲は東西1km、南北650m、標高50~70mほどのところに位置します。城の外周は築地塀・土塁・材木塀・溝などで区画され、内部のほぼ中央に政庁があり、瓦葺きの建物が「コ」の字型に配置され、その中央に儀式などを行う広場が設けられていたようです。

政庁域の復元図(現地にある案内板より)

宝亀5(774)年になると、陸奥国の海道蝦夷が不穏な動きをみせ、民衆は城の維持に駆り出され、耕作ができないという状態となります。当時、東北の軍事と行政のトップだった大伴駿河麻呂は、この事態に対処するために征夷の是非を光仁天皇に奏上しましたが、許可がおりませんでした。

しかし、駿河麻呂は「蝦夷が野心を改めず、しばしば辺境を侵し、あえて王命を拒んでいる」と述べて、征夷の実施を強く訴え、光仁天皇は征夷の命を下します(『続日本紀』宝亀5年7月23日条)。

ところが、征夷の勅命が陸奥国に届く前に、海道蝦夷が蜂起し桃生城を攻め、桃生城の西郭が破られています(桃生城襲撃事件)。この時の様子は、『続日本紀』に次のように記されています。

海道蝦夷。忽發徒衆。焚橋塞道。既絶往来。侵桃生城。敗其西郭。鎮守之兵。勢不能支。国司量事。興軍討之。

(海道蝦夷がたちまちに衆徒を動員して橋を焼き、道をふさいで往来を絶ち、桃生城を襲撃して西郭を破った。国司は上奏し、軍を興してこれを討った。)

『続日本紀』宝亀5(774)年7月23日条

この桃生城襲撃事件により、以後38年間に渡る蝦夷と朝廷との戦い(三十八年戦争)が繰り広げられていくことになります。

なお、桃生城はその後再興されることはなかったようで、造営から約15年ほどで城柵としての役割を終えたと考えられています。

桃生城跡を歩く

それでは、桃生城跡を歩きます。桃生城跡の入口に公民館があり、車はそこに停めました。

公民館のそばに桃生城跡の案内板が立っています。

入口の案内板

案内板の脇に立ち、桃生城の遠景を眺めます。中央の丘陵地帯が桃生城跡です。

桃生城跡遠景

桃生城跡へ向かう途中、こんもりした丘があり、石段があったので登ってみると神社がありました。祠は金毘羅さんのようです。

金毘羅さんを横目に進んでいくと、道が二手に分かれています。Googleマップを頼りに右へ進むと、民家へ出てしまいました。一度引き返して左へ進みます。

左手へ進んでいくと、道はなだらかな坂道になっていきます。15分ほど進んでいくと、桃生城跡への入口に差し掛かります。

残雪に足跡が残っており、先客がいたのかと驚きましたが、畑の所有者の方の足跡でした。

雪に足を滑らせながら進んでいくと、案内板が見えてきます。

案内板には現在地が記載されています。

案内板があるのは政庁の位置のようです。現在は木々に覆われ、遺構は確認できませんでしたが、自分がいる場所がまさに歴史が大きく動いた場所であることに思いを馳せながら、しばし佇んでいました。

↑こんな感じなので、冬に行くことを強くおすすめします。

帰りに、散歩中の地元の方がいました。挨拶をすると、「誰かと思った。知らんけど。」と返事があり、2人でお話ししながら歩き出します。途中でもう一人近所の方が合流し3人で歩いていると、さらに近所の方が2人ほど加わり、談笑しながら公民館まで戻りました。

地元の方曰く、「たまに見に来る人はいるけど地元の人は興味がない。」とのこと(史跡あるあるですね)。また、熊がよく出るとのことなので、見学の際はご注意ください。

最初の案内板のところから、眼前に広がる田んぼを眺めます。今でこそ桃生城跡周辺は一面田んぼとなっていますが、江戸時代以前は北上川が流れ、湿地帯のような状態だったと考えられています。

『続日本紀』にある「跨大河凌峻嶺。作桃生冊。奪賊肝膽。」(大河をまたぎ、峻嶺を凌ぎ、桃生柵をつくりて賊(蝦夷)の肝胆を奪う。)の記述を思い出しながら、在りし日の姿を想像していました。

なお、桃生城跡周辺には、『延喜式』神名帳に記載のある延喜式内社が2社(日高見神社飯野山神社)あるので、こちらも併せて散策することをおすすめします。

【所在地】宮城県石巻市飯野

【駐車場】なし(※近くの公民館に停めました。)

参考文献(古代東北史をもっと知りたい方へ)