海蔵庵板碑群

2022年9月5日

今回は、宮城県石巻市にある海蔵庵板碑群(かいぞうあんいたびぐん)です。

北上川流域にある板碑群で、北上川は石巻の他に、三陸海岸の長面にも河口をもっています。この河口の長面浦を見下ろす傾斜地に海蔵庵板碑群があります。海蔵庵板碑群には、全国でもここでしか確認されていない、側面と上方を石板で囲まれた石堂風の板碑があります。

海蔵庵の近くに板碑群の入口があります。

ゆるやかな坂道を登っていくと、板碑群が見えてきます。

海蔵庵板碑群は、確認されているもので弘安10(1287)年から文安4(1447)年まで159基の板碑があります。

僧侶を含む有力者の一族が、主に追善供養を目的に造立したもので、板碑の前に火葬骨を埋納したものや古い板碑を整理した痕跡もあるようです。

発掘調査の結果、側面と上方を石板で囲まれた「石堂」の存在が9基あったと推定されています。

最も古い板碑は、「よりとも様」と呼ばれる「弘安10(1287)年」銘のもので、石堂の形式に整備されています。

よりとも様

この「よりとも様」の板碑は、三十五日忌の追善供養として造立されたもので、主尊の大日如来を梵字で表し、天蓋と蓮座で装飾されています。

「よりとも様」の両脇には、1基ずつ板碑が配置されており、この両脇の五大種子の板碑を「よりとも様」の主尊大日如来に奉斎して、菩提成就を表現したと考えられているそうです。

また、この五大種子の板碑の彫り方(薬研彫)が、ほかの貞和4・5年銘の板碑の種子と似ていますが、弘安10年の「よりとも様」の大日如来の種子の彫り方(皿彫)とは異なることから、露座の「よりとも様」の碑が、貞和年間(1345~50)に石堂になったと推定されています。

これらの石堂形式は、中世鎌倉の上級武士の墳墓形態である「やぐら」に類似しており、鎌倉の建長寺に在住した経験をもつ海蔵寺開山の洞叟仙公禅師との関連が指摘されています。

建長寺山門

では、なぜ鎌倉文化がこの地に伝播したのでしょうか。

その理由として、『宮城県の歴史散歩』では、2つの理由が述べられています。

1つ目は、この牡鹿・桃生郡内(現在の宮城県石巻市とその周辺地域)の浜が「遠島五十四浜」として鎌倉幕府執権の北条氏の直轄領とされたことです。

2つ目は、ともに北上川河口に開けた長面浦と石巻の中世的景観の類似性です。

石巻は当時牡鹿湊として栄え、海蔵寺(海蔵庵)と開山時期が重複すると考えられる日輪寺(多福院)には、海蔵庵と酷似した種子を使用した板碑があるそうです。また、長面浦は、海に突き出た岬に守られ、近世初頭に他国の舟が出入りした良港としての伝承が残っており、地形的にも石巻と類似しています。

このことから、長面浦の北上川河口も牡鹿湊と同様に板碑の見える湊として海から鎌倉文化を受容していたと推定されているようです。

海蔵庵裏手から長面浦を臨む

他にも、海蔵庵参道入口にも板碑群があります。

海蔵庵さんのホームページ(クリックで遷移します。)には、海蔵庵や石巻にまつわる伝承等が紹介されていて大変勉強になります。

【所在地】宮城県石巻市尾崎字宮下

【駐車場】あり

史跡

Posted by きだ