藤原忠衡(和泉三郎)寄進の燈籠と九輪塔

奥州藤原氏の一族、藤原忠衡(和泉三郎忠衡)が寄進した鉄燈籠と鉄九輪塔が宮城県内に残されています。

今回は、鹽竈神社(宮城県塩釜市)と大高山神社(宮城県大河原町)にある藤原忠衡ゆかりの鉄燈籠と鉄九輪塔をご紹介します。

藤原忠衡(和泉三郎)とは

藤原忠衡は、12世紀に岩手県平泉町を拠点に奥州に覇を唱えた奥州藤原氏三代当主藤原秀衡の三男です。秀衡の館である柳之御所にほど近い泉屋の東を住まいとしていたことから、「和泉三郎」の通称を名乗っていました。

中尊寺金色堂(岩手県平泉町)

文治3(1187)年、源頼朝と対立した源義経が、奥州の藤原秀衡を頼り平泉に落ち延びてきます。秀衡は義経をかくまいますが、義経が落ち延びてきて間もなく死去してしまいます。

死の間際、秀衡は泰衡たち兄弟を集め、義経を主君とし頼朝に対抗するようにとの遺言したと言います(『玉葉』文治4年正月9日条)。

忠衡は秀衡の死後、父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張しますが、兄の泰衡は頼朝の圧力に屈して、文治5(1189)年4月に義経とその妻子・主従を殺害。同年6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示します。

しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、これまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発しました。

鎌倉方の強硬姿勢に動揺した奥州では内紛が生じ、忠衡は父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)と考えられ、忠衡は義経に味方したとして、意見が対立した泰衡によって誅殺されます(『吾妻鏡』文治5年6月26日条)。享年23と伝わります。

さらに、『尊卑分脈』の記述によれば、忠衡が誅殺された際、秀衡の五男で忠衡の同母弟とされる通衡も共に討たれています。「奥州に兵革あり」と記録されている事から、忠衡の誅殺には軍事的衝突を伴ったと考えられます。

なお、岩手県平泉町の中尊寺金色堂には、奥州藤原氏3代(清衡・基衡・秀衡)の遺体と泰衡の首級が安置されています。首級は寺伝では忠衡のものとされ、首桶が入っていた木箱にも「忠衡公」と記されていましたが、昭和25年(1950年)の学術調査の結果、現在は泰衡の首級であるとされています

他にも、義経とともに北海道に落ち延びた等、忠衡には様々な伝説が残されています。

文治の燈籠(鹽竈神社)

鹽竈神社は、宮城県塩釜市にある神社で、陸奥国一宮です。

忠衡が寄進した燈籠は、武甕槌・経津主神を祀る左右宮拝殿の脇にあります。

文治の燈籠

燈籠は「文治の燈籠」と呼ばれています。以下は、燈籠の隣に設置された説明板の内容です。

元禄二年五月九日(陽暦六月二十五日)朝、芭蕉は鹽竈神社に詣でこの燈籠を観る。扉の碑文に「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」とある。「…神前に古き宝燈あり。……五百年来の俤(おもかげ)、今目の前に浮かびてそぞろ珍し。かれは勇義忠孝の士なり。…」と奥の細道に綴った。

近づいて燈籠に目をこらすと、扉の部分に「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」と刻まれています。

燈籠に刻まれた文治3年は、源義経が兄頼朝の追ってから逃れるために、秀衡を頼って奥州へ落ち延びてきた年で、忠衡が泰衡に誅殺される2年前に寄進したものになります。

忠衡がどのような理由で鹽竈神社に燈籠を寄進したのかは記録がないためわかっていません。

【所在地】宮城県塩釜市一森山1-1

【駐車場】あり

鉄九輪塔(大高山神社)

次は、宮城県大河原町にある大高山神社です。大高山神社は『延喜式』神名帳にも名が載る式内社で、日本武尊を祀っています。

参道入口

忠衡が寄進した鉄九輪塔は、拝殿の隣にあります。

拝殿

銘文は見つけられませんでしたが、文治年間に藤原忠衡によって寄進されたと伝わっています。

こちらも文治の燈籠と同様に、どのような理由で寄進されたのかわかりませんでした。

【所在地】宮城県柴田郡大河原町金ヶ瀬台部2-1

【駐車場】あり

史跡

Posted by きだ