岩谷観音
「みちのくの 忍ぶもちずり 誰ゆえに 乱れ染めにし 我ならなくに」
これは河原左大臣と呼ばれた源融が、福島県福島市の文知摺観音を歌枕(多くの和歌に詠みこまれた名所、地名)に詠んだ歌である。この歌のなかの「しのぶ」は福島の旧郡名である「信夫」と「忍ぶ、偲ぶ」をかけて詠んだと考えられる。
信夫は古来から歌枕の地として和歌に詠まれており、特に福島市の真ん中にある信夫山を詠んだ和歌は90首あるという。
信夫山は熊野・羽黒・羽山の三山からなり、羽黒・月山・湯殿の三神社が祀られ、古くから信仰の山となっている。この信夫山の一角に古くから「岩谷観音」と呼ばれる霊場がある。
平安時代末期、飯坂(福島市)の大鳥城に居城をかまえて信夫郡一帯を支配した佐藤庄司基治の叔父である伊賀良目七郎高重が、五十辺(福島市)に館を構えていた。この子孫である伊賀良目春顕が応永23(1416)年に先祖伝来の観音像を本尊として建立した「窟観音」に始まると伝わる。
岩谷観音入口の石段付近に車を停める。ちょうど地元の方が散歩しており、石段の下から手を合わせる様子が見られた。今も地域に根付く霊場であると実感させられる。
急な石段を登ると、すぐ磨崖仏が姿を現すが、圧巻の光景に思わず声がもれた。
磨崖仏の前に、まずは観音堂を参拝する。見晴らしも良く、福島の市街地を一望できる。
岸壁一面に彫られた磨崖仏の数々。その彫りの精巧さにうっとりしてしまう。
磨崖仏群は、西国三十三観音本尊をはじめ、60体余りの磨崖仏が彫られている。
作者は不明だが、西国三十三観音の札所名と本尊のお姿が正確で、仏像の儀軌に通じた修行僧の手によるとされる。
宝永2(1705)年の銘がある聖観世音菩薩が年紀のわかるものでは最も古いとされ、三十三観音像もこの頃(宝永6(1709)~宝永7(1710)年前後)の作と考えられている。
三十三観音以外にも様々な仏像が彫りこまれている。
岩谷観音はいずれも見事な磨崖仏だが、岩質のせいか風化が激しく、剥落しかけている磨崖仏も多く見受けられる。こういった磨崖仏はいつでも見れると思ってはいけないと痛感した。
岩谷観音には磨崖仏の他に石碑もあった。いずれも江戸時代の石碑で、民衆の信仰の場であったことが伺える。
個人的に驚いたのは磨崖の庚申塔である。「百庚申」と彫られている磨崖に目がいってしまうが、よく見ると百庚申の周囲は「庚申」で埋め尽くされている。
さらに奥に進むと、社殿のような屋根が刻まれている場所があり、なかには仏像の残骸のようなものが置かれていた。
西日に照らされた磨崖仏群は素直で美しく、いつまでも眺めていたいと思える。岩谷観音は民衆の素朴な霊場に佇む磨崖仏群であった。
なお、この磨崖仏は半田カメラさんの『道ばた仏さんぽ』に掲載されている。半田カメラさんも絶賛の磨崖仏である。
【所在地】福島県福島市岩谷7-2
【駐車場】あり(岩屋観音入口石段の隣に駐車スペースあり)